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島本和彦「ゲキトウ」1巻

 あの不屈闘志が10年のブランクを乗り越えて帰ってきた。高校卒業後、プロで活躍していた不屈だが、優勝決定戦のその日に逃亡。そのときには肩を壊していた不屈だが、万全に体調を整え合同トライアウトに参加、現役復活をはかる…というものです。
 いやあさすがに島本先生、ケレン味たっぷりの大仰な台詞で引き込んでくれます。「無理を通して道理を引っ込ませる!」例の強引な展開も健在。逃亡しようとするまさにそのとき、本当なら仲間からなじられるところ、逆ギレして説教をかましてしまうという強引さ。男としての説得力というものは、道理や論理性にあるのではなく、その場の「アツさ」をきちんと認識しているかどうかにあるのだ、ということを思い知らされます。ただまぁ全体的な展開としてはまだまだこれから。例のアレが「キタキタキター!」というところで1巻は終わっていますから。今後に期待したいところです。
 ただちょっと危惧はありますね。「吠えよペン」であれだけメタ的な=自分さえもパロディにするようなネタをやっており、そしてそれをきわめて楽しそうにやっているために、この作品もメタ的に見てしまうのではないか、という。いままで燃えに燃えて描いていたのが、ある日突然醒めてしまうという危険性ですね。まぁそこは島本先生、腹をくくってやってくれるとは思うのですが。

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山口貴由「シグルイ」2巻

 誇りに、大義に、組織に、命をかける。ほんのつまらないことで命のやりとりをする。現在の考え方からすれば不合理この上ないことですが、少し前の日本ではそれはちっとも不合理なことではありませんでした。また、その命のやりとりは、技術や道具の善し悪しも多少は関わってきましたが、なにが勝負を決定づけるかといえば対戦者の精神でした。「死」にのめり込む度合いが高いほど、勝負に勝つ可能性が高かったといえるでしょう。おのれの命を惜しむ、という立場からすれば、こうした耽溺は「狂気」であるといえますが、要は「狂気」に浸っていればいるほど、命のやりとりに勝つ可能性が高かったわけです。「死」に「狂う」、すなわち「シグルイ」であるほど、強いという世の中があったわけです。それが武士の世界であり、あるいはそれを継承した旧軍の世界でした。この作品は、最初から武士たちの持つ不合理性…「シグルイ性」を描き出し、容赦なく死を描いていきます。それは本当に不合理なものですが、なぜかひどく心動かされます。それは、読み手である私たちの心に、理性や合理性では割り切れない部分があり、どうしても武士たちの不合理性に共感せざるを得ないからではないでしょうか。そして私たちの心に眠る狂気を、揺り動かすからではないでしょうか。ですからこの作品は、ひどく危険であるといえましょう。なぜなら狂気は、間違いなく伝染するのですから。
 ただ、だからといってこの作品を避難したり、排斥したりするつもりは私にはありません。むしろ、だからこそこうした作品は「描かれなければならない」と考えます。なぜなら、私たちは、狂気を飼い慣らさなければならないからです。おのれの狂気を認識して、その働く範囲を知る。こうすることによって、私たちは自分自身の狂気をなんとかすることができます。その際にこうした作品は重要な基準として作用するのですね。自分の狂気の有様を知るための。それに「作品である」が故に、現実と一線を画した形で受容することができます。
 心の奥に潜む、よくわからないもの。それは形を取らない欲望であり、闘争心であり、うごめくなにかであり、一言でいえば狂気と呼べるもの。それを制御するためにも、この作品は読まれなければならないと考えます。

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久正人「グレイトフルデッド」2巻

 様式化された独特な筆致で、霊幻導士たちの戦いを描く作品もめでたく第2巻。女キョンシーハンターコリンの活躍も、いよいよ本格化といったところです。とにかくこの独特な、ほかの誰にも真似できない絵柄がいいですね。その人の絵を見ているだけでうれしくなってしまうという、「絵柄の快楽」を感じる作家は結構いますが、この人の快楽はかなり強いものです。また、舞台設定やオハナシの展開もオリジナリティが高くてよいです。なんといってもキョンシーですから。80年代に流行はしましたが、キョンシーのことについて細かく知っていた人はそれほどいないでしょう。なのでこれまで見たことのない、「新しい」世界が広がっているわけです。こういうSF/ファンタジーに不可欠な「ワンダー」もありますし。そしてなにより主人公コリンの魅力的なこと! 「普段はダメダメな娼婦だが吹っ切れるとすごい」という設定は、今回はほとんど生かされていませんが、まあコリンの強いことエロいこと。強い爽快感があり、読んでいて「ああ、面白いなぁ」と思えます。かなり高いところでバランスの取れた作品だといえるでしょう。ところでキョンシーものといえば、ついついこのゲームを紹介したくなってしまうんですが。ていうか皆さん機会を見つけてプレイしてみて頂きたいんですが。

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玉置勉強「東京赤ずきん」1巻

 最近はすっかり「バーズ」から遠ざかっていたのですが、この何ヶ月かは読んでます。なぜかといえばこの作品が載っているから。「エース特濃」「バーズ」と掲載誌を転々としていますが、どうやらバーズで落ち着きそうな気配。玉置勉強の連載は最近ありませんでしたから、いちファンとしてはありがたい限りです。
 で、内容ですが、これがまあやりたい放題というか、エロ味満点で大満足。ちっちゃいロリっ子がまあさんざんに陵辱されたり内蔵がはみ出したり血と精液がドバドバ出たりして、読んでるこちらもカタルシスを覚えます。ひどいといえばひどいのですが、姿勢が徹底しているために非常にさわやかなんですね。きっとこれまで表現できなかった様々な欲望がこもっているんだろうなぁ…。そして東京の闇の中に異形のものがうごめき出すというストーリーも面白い。そして全体的なキャラクター造形や演出のうまさ。いやあ、やっぱりやってくれます。癖は強いんですが、こういう作家にはちゃんと活躍の場を与えなければならないな、と強く思います。

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やぎさわ景一「ロボこみ」1巻

 「週刊少年チャンピオン」掲載作品。最初は読み切りで始まったのですが、あれよあれよというまに連載へ。単行本にまでまとまったわけですが、それもそのはず、着眼点がいいんですね。
 マルチやセリオ、あるいは「D.C.」の美春以降、「ロボ萌え」は定着した訳ですが、ちょっと一歩引いて考えてみると、ロボ萌えというのは不可思議なものです。だって機械じゃないですか。なぜ私たちはロボにこんなに萌えるのでしょうか。彼女らの萌えの源泉は、けなげさやわんこ属性という、人間的な萌え要素にあったのではないでしょうか。そしてロボという設定は、彼女らの萌えを強化する、付加的な萌え要素だったのではないでしょうか。ロボだから萌えるのではなく、ロボであることは萌えを強化する属性にすぎないのです。無表情のセリオは、ロボの萌えを抽出した存在であるということができます。ただ、やはり違和感は残ります。やっぱりロボはロボなんですから。
 で、この作品は、ロボをロボとして即物的に描くことで、「ロボ萌え」のヘンテコさ加減を描き出します。ヒロインのロボ子(すげー即物的な名前!)は、他の人からは普通の美少女に見えますが、主人公からだけはロボットに見えます。そしてロボですから、ミサイルを出したり濡れるとショートしたり爆発したりしますが、その被害は主人公だけが受けます。基本的には主人公の受難を描くギャグマンガなんですが、「ロボ萌えのロボがホントにロボだったらどんなにマヌケか」ということを描き出しています。そしてキャラはどんどん増えていきます。妹、幽霊、恩返しに来た子猫、オカルト少女…。キャラを増やすという構造は、最終的にこのマンガの息の根を止めるかな、なんて思いもしますが、全部萌えキャラだというところが面白いではないですか。つまりは現在の萌え状況に対する、メタ的な視点からの批判になっているのですね。おそらく作者のやぎさわ景一は、浴びるように萌え作品を摂取してきたのでしょう(浜岡賢次の弟子のようですが)。だからこそ萌えを皮肉ることができる。桑原ひひひ「俺フェチ」もそうですが、こうしたメタ萌え的なまんがが増えてきたことは、非常に興味深いことだと思います。
 あとはこの人、キャラが非常に立体的で肉感的なんですね。読み切り「死神デス」なんかは顕著なんですが、非常に女キャラがむっちりしています。そちらの方でも注目されるのではないかな、なんて思います。

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