« 2006年3月 | トップページ | 2006年10月 »

「オタク女子研究」の注目すべき点

 非難囂々の「オタク女子研究」ですが、いくつか注目すべき点があるのは事実ですね。まずは興味深い指摘になっているところを挙げてみましょうか。

・萌えと恋愛とは別腹(43ページ)
・30代半ばより下の世代は「モテないこと」「オタク化する自分」に躊躇しない(54ページ)
・女子オタクはコミュニケーション志向が強い(121、123ページ)
・女性がオナニーの話をしないのは、自分のナルシズムを隠したいという羞恥心を持っているため(148ページ)
・BLややおいは女性読者にとって感情移入できないもの。だから楽に語れる(156-157ページ)
・腐女子は関心が妄想に向かっているので、現実の男に欲がない(167ページ)
・腐女子は現実に対応するために様々な顔を使い分ける(213ページ)

 それから、現在のストレスフルな現在の競争社会を生き抜く「ワザ」として、腐女子的な「楽な」生き方を提言しているところが興味深いところです。高望みをするのではなく、得られないものを得ようとするのではなく、身近な萌えに目を向けよう。このメッセージは、苛烈さを増していく現在の社会において、有効に響くものといえるでしょう。「腐女子というものはこういうものだ」と、腐女子像を非常に単純化しているのは、このメッセージを伝えやすくするためだと解釈することができます。随分寛大な解釈という気もしますが。

 もうひとつ、恋愛資本主義に対する対抗になっているところも見逃せません。恋愛資本主義は男性にも女性にも「恋愛偏差値」をつけ、偏差値の大小によってその人の恋愛市場における商品価値が決まってきます。そして偏差値と収入は正の相関関係にあります。特に女性はランク付けや競争にさらされて、強いストレスを感じるでしょう。この本はそうしたガチガチのヒエラルキー構造から外れて、萌えで自己充足していこうと主張しています。恋愛資本主義は私たちの社会を強く規定しているものですから、この主張はみるべき点があると思います。

 加えて、セックス至上主義を批判しているのも注目すべきところです。恋愛資本主義は結局、男性にとっては「いかにいい女とセックスするか」、女性にとっては「いかに経済力や社会的ステータスが高い男とセックスするか」ということに収斂していきます。それが恋愛資本主義に強い魅力を与えているのです。ですがこの本では、その構造は空しいことだとはっきり指摘しています。これは現状に対する批判力を持っているといえるでしょう。

 とまあ、競争社会や「恋愛資本主義」に対する批判となっている部分は、素直に注目していいのではないかと思います。ただ、「恋愛至上主義」についてはどうかというと、はっきり言ってグダグダです。「恋愛資本主義」と「恋愛至上主義」に対するスタンスの違いと深刻な自己矛盾は、この本が抱える問題の重要な原因になっていると思います。これからは、この本の問題点を挙げていきたいと思います。研究会も目の前ですしね!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

酒井順子「負け犬の遠吠え」と比較して

 非常に久しぶりの更新です。やっぱり年度初めは忙しいですね。ですがようやくリズムが見えてきたので、まめに更新していきたいと思います。

 杉浦由美子『オタク女子研究』について考えることもやめていません。今度の日曜日に研究会をやり、そこで発表する予定なので、改めて取り組んでいます。あとは関連図書も読んでいます。小倉千加子『結婚の条件』とか。

 そこで読んだのが酒井順子『負け犬の遠吠え』ですね。恥ずかしながら今まで読んだことがなかったんですよ。ですが読んでみると、全てがすっきりしたのです。あ、『オタク女子研究』っていう本は、『負け犬の遠吠え』を敵として書かれたんだ、と。歌舞伎女とかヤンキーとか、登場する要素がいちいち「負け犬」に対応するところなんて、カワイサすら感じます。そして「負け犬」に対抗する存在として「腐女子」を設定し、「負け犬より腐女子がイイのよ」「つまりそれを紹介するアタクシは酒井順子よりイカしてるのよ」という論法になっているわけです。その裏にははっきりと「これで売ってやろう」という野心が現われていますね。「負け犬」という酒井順子が作った枠組みを使い、酒井順子の本を買った人を主な対象として、「腐女子」という概念を提示することによって、自分のプレゼンスを高める/収入を得ることを目的としていることが分かってきます。他人のふんどしで相撲を取るというか、まあ二匹目の泥鰌ですね。

 ここで問題になるのは「酒井順子を敵視するあまり、「負け犬」に対応する範囲内でしか「腐女子」を解釈できていない」ということです。「負け犬」と対立する存在として、「腐女子」を設定してしまったのですね。本来「負け犬」と「腐女子」は対立しない関係にあります。「腐女子」は、女性の趣味や好みのレイヤーであり、特定の生き方に固着しているものではないのです。もちろん購買力や歴史などの様々な要因を考えると、30代非婚フルタイマーがもっとも腐女子の中での割合が高いのでしょうが、そうではない腐女子もたくさんいます。ここに杉浦の根本的な間違いがあるのですね。本来対立しない、そもそもレイヤーがずれている要素を、むりやり同じプレーンに置いて、対立させているのです。ですから書かれていることは、多様な腐女子の側面のごく一部を描き出すに過ぎませんし、「負け犬」に対応しない腐女子の部分は、根こそぎ無視されることになります。ですから杉浦の描き出す腐女子の像は、確かに正しい部分もありはしますが、概ね「間違っている」と断言できることになります。

 後はやっぱり腐女子を「消費しよう」という姿勢がはっきり見えてくるところが問題ですね。二匹目の泥鰌を狙うってことは、先行する作品にあやかって利益を得ることを目的としますが、描く対象に愛がない場合は、必然的に対象を消費していくことになります。「腐女子である私の話を聞いて」という姿勢であれば、共感を得られ、消費しようとしているという印象は生まれなかったでしょう。ですが杉浦の場合は「負け犬」「男オタ」「ヤンキー」「腐女子」のどの層に対しても肩入れはせず、どれも等価に切って捨てています。杉浦にとっての「腐女子」は、「負け犬の遠吠え」に対抗するための道具に過ぎないことが、このことから分かるのですね。ですから非常にたちが悪いことが分かります。腐女子を自称してはいますが、実は腐女子を利用し、自分のプレゼンスを高めることしか考えていないのですから。そしてそうすることによって、相対的に腐女子のプレゼンスやイメージは下がるのですから。

 ただまあ、「オタク女子研究」は、「生き方」の面では注目すべき意見を提示している部分はあると思います。「恋愛資本主義」対抗という面も強いですから。これについても急速にまとめ作業中なので、明日にでもアップできるかなと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年3月 | トップページ | 2006年10月 »