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当時のアニメの状況(2) 宇宙戦艦ヤマト

 1979年当時、「オトナ向けのアニメ」が渇望されていました。では当時、どのようなアニメがあったのでしょうか。

 78年の目玉作品は、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」でした。この作品は、白色彗星という強大な敵で記憶されています。味方にも、強力な新型戦艦アンドロメダが登場します。ヤマトより洗練された、メカメカしいフォルムを持ち、ヤマトより強力な拡散波動砲を2門も装備しています。量産型の標準戦艦も拡散波動砲を持ち、ヤマトより強力だったはずです。再建された地球艦隊は、白色彗星の前衛艦隊には勝利を収めます。ですが白色彗星本体には、なすすべもなく一蹴されてしまいます。それだけ白色彗星は強かったのです。
 ヤマトの活躍で、白色彗星の周囲を覆っていたガスが晴れますが、白色彗星本体のフォルムも、インパクトのあるものでした。惑星を横半分に割ったその上に、都市があるという。当時のアーケードゲームに、白色彗星をモチーフとした敵が登場します。日本ではタイトーが発売した「フェニックス」(Amstar、80年)のボスとして登場します。このゲームは海外で開発されたものなので、すでに海外にも情報が伝わっていたことが分かります。また「スカイベース」(大森電気、81年)にも、白色彗星をモデルとしたと思われるボスが登場します。白色彗星は、「さらばヤマト」公開後も、数年間はインパクトのある敵として記憶されていたことが分かります。
Phoenix_2
(「フェニックス」のラスボス。まさに白色彗星そのままです)
Skybase_2
(「スカイベース」のラスボス。上からミサイルが降ってくるのは「宇宙戦艦ヤマト」の天井ミサイルからとったものでしょうか)

 主題歌「ヤマトより愛をこめて」を歌ったのは、当時人気が絶頂期にあった沢田研二でした。キネマ旬報の調査によると、「さらばヤマト」は78年の邦画配収で、「野生の証明」に次いで2位となり、21億円の配収をあげます。同年の「スター・ウォーズ」の配収43億円の半分にもなりませんが、アニメ映画としては空前のヒットだったといえるでしょう。

 ですが、アニメファンは今ひとつ盛り上がりに欠けていたようです。確かに、創刊されたばかりの「アニメージュ」では、創刊号(78年7月号)、創刊2号(8月号)と、大きく特集されました。ですがその後は大きく特集されることはなくなりますし、読者ページでの反響も、「ガンダム」に比べるとささやかなものでした。この時期は、まだアニメ雑誌としての方法論が固まっていない頃なので、ちょっと比較するのは酷かもしれませんが。「OUT」は、77年6月の創刊2号で「ヤマト」を特集し、大きく注目されますが、「さらばヤマト」については、78年9月号で一度特集しているだけです。そもそもこの頃の「OUT」は、まだアニメ雑誌とはいえず、様々な若者文化の総合誌で、その中でもアニメに比較的重点を置いている、という雑誌でした。編集者K(のちに「ふぁんろーど」を立ち上げる浜松克樹)が中心となって、アニメや特撮、SFネタを取り上げますが、そうしたネタは別冊「ランデヴー」で主に扱うようになります。そして78年11月号を最後にKは退社し、「OUT」本誌でのアニメネタは縮小し、「ランデヴー」も刊行されなくなります。
 そして「ヤマト」のファンも、醒めていたところがありました。「ヤマト」のファンクラブの原動力は、TV版の「ヤマト」がオトナの鑑賞に堪えるだけの内容を持っていたということもありましたが、「ヤマトが永遠に見られなくなるかもしれない」という危機感にもありました。TV放送された「ヤマト」は、裏番組だった「アルプスの少女ハイジ」に視聴率で負け、放送が短縮されました。当時は再放送されなければ、アニメは二度と見られないもの。オトナの鑑賞に堪える、シリアスな内容のアニメが、もう二度と見られないかもしれない…「ヤマト」のファン活動の背後には、そうした強い焦りがあったのでした。
 一方、「さらばヤマト」は、かなり豪華な布陣で制作されました。絵コンテは安彦良和ですし、実際の制作には東映動画があたりました。宣伝も盛んに行われ、映画として盤石の体制を整えていました。それはファンにとっては、醒める原因にもなりました。危なっかしさがなく、ヒットが約束されている映画には、情熱の注ぎようがなかったのです。そして映画公開後の10月から、テレビシリーズとして「宇宙戦艦ヤマト2」が始まりました。この作品は基本的に同じストーリーでありながら、結末が全く異なっていました。映画では、地球を救うために、ヤマトは超巨大戦艦に特攻していきます。そしてヤマトはこれで終わりであること、自らを犠牲にすることの大切さを記したメッセージが示されて、映画は終わります。しかし「ヤマト2」では、ヤマトは沈没せず、メインキャラクターも死にません。そして次のシリーズに続くことになったのです。翌79年には、テレビスペシャルとして「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」が放送されます。そこでは、新たな共通の敵の登場により、仇敵だったヤマトとガミラスのデスラーは、共同戦線を張ります(80年の「ヤマト3」では、地球とガミラスは同盟国になります)。熱心なファンにとっては、なんじゃこりゃ、ということになったでしょうね。俺の感動を返せ、と思った人もいたでしょう。
 「ヤマト」は、確かにオトナの鑑賞に堪えると認識された、最初のグループの作品でした(正確には72年の「海のトリトン」が最初です)。ですがシリーズ化された「ヤマト」は、ファンをげんなりさせる、つまり「萎える」要素が多い作品でもあったのです。

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当時のアニメの状況(1) 渇望されるオトナ向けアニメ

 このブログでは、アニパロが成立するのは79年から82年、という説を掲げておきます。その理由はおいおい明らかにしていきたいと思います。
 この時期、アニメは大きく変わっていき、この変化がアニパロの直接の背景になっています。では、当時の状況はどうだったのでしょうか。

 79年当時、「オトナが見るアニメ」が渇望されていました。ここで「オトナ」というのは、年齢的に成年に達している人だけを指すのではなく、子どもの次の段階に進みたいと思っている人、中学生から高校生のティーンも含みます。精神的に実際に成熟しているかどうかは関係なく、「もうコドモじゃない」と考えている人、という意味です。
 74年に「宇宙戦艦ヤマト」が放映され、77年には映画化され、ブームになります。なぜヤマトがヒットしたかというと、ヤマトは「オトナが楽しめるアニメ」だったからです。様々な若者文化が勃興してきた70年代、若者はアニメも楽しむようになってきました。アニメの制作者側も、子ども向け作品と割り切ってアニメを作るのではなく、壮大なストーリーや、考えさせるテーマを作品に込めるようになってきました。富野喜幸が監督を務めた「海のトリトン」(72)では、敵を悪だと思って戦ってきましたが、実は自分たちの側が悪だったのかもしれない、というラストシーンとなっていました。長浜忠夫監督の「超電磁ロボコン・バトラーV」(76)では、敵のリーダーとして美形キャラ・ガルーダが登場し、愛のために母を裏切って死ぬというストーリーとなっていました。富野喜幸監督の「無敵超人ザンボット3」では、敵異星人と戦うと町が破壊され、主人公たちは非難される、という描写が成されていました。すでに内容的には、オトナの鑑賞に堪える作品作りが成されていたのです。
 ところが世間のアニメの見方は、「アニメは子ども向けのものである」というものが圧倒的でした。なんといってもアニメ制作のスポンサーとなる企業がそう考えていました。アニメはオモチャを売るための宣伝媒体。そのためロボットが登場しなければいけないし、どう見ても不合理だけど合体しなければいけないし、毎回新しい敵と戦って、カタルシスを与える形で勝たなければいけない。主役であるロボットもおもちゃメーカー主導でデザインされることになりました。象徴的な例が「コン・バトラーV」の後番組である「ボルテスV」(77)ですね。アニメスタッフは、おもちゃメーカーから提示されたロボットのデザインを、一切変えることは許されなかったといいます。リアルロボットのはしりとされる「機動戦士ガンダム」(79)も、その構造から逃れることはできませんでした。トリコロールのカラーリングもそうですし、いかにもおもちゃじみたGメカ、そして毎回ジオンの新型メカが登場する後半と、いずれもスポンサーからの要求であったといいます。…まあ、その新型ラッシュが、後にプラモデルにするモビルスーツ不足にあえいだバンダイを助けたのですから、皮肉なものですが。
 それから当時、アニメに興味を持ち始めた若者たちの親世代は、やはりアニメを子ども向けのものと考えていました。大人になったらアニメは「卒業」するもの、と考えていたのです。もちろん同世代の若者の中にも、そう考える人がいました。つまりアニメを愛好することは、子どもっぽい、褒められたものではないという考えが強かったのです。
 アニメを愛好するようになった若者は、アニメに見応えのあるドラマがあることに気づいていました。キャラやメカの魅力があることにも気づいていました。オトナの視点で評価しても面白いと感じられる作品なのに、アニメ全体が子どものものと考えられていたために、アニメは不当に低く評価されていると感じられたのです。またアニメを見ること自体も、強く制約されることになりました。「こんなくだらないものを見ているんじゃなくて、勉強しなさい」と言われるのは、ほとんど決まり文句のようなものでした。ですからアニメを愛好する若者たちは、周囲の大人を説得し、正々堂々とアニメを見るためにも、「大人向けのアニメ」を渇望していたのです。

*当時のロボットアニメのデザインについては、カラー版 超合金の男 -村上克司伝- (アスキー新書)に詳しく載っています。

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はじめに:なぜ「アニパロ」なのか?

 現在のおたく文化、とくに女性のおたく文化に、決定的とも言える影響を与えているのが「アニパロ」です。 

 女性向けの同人誌において、パロディはなくてはならないものです。現在ではゲーム、マンガ、ナマモノ、半生と、広い範囲のパロディがあります。芸能やロックスターのパロディは、女性向けの同人誌が始まった頃からあったともいいます。ですがパロディという表現手段が確立し、そして急速に広まっていったのは、「アニパロ」という表現ジャンルが成立した結果なのではないでしょうか。80年代初頭に「アニパロ」が成立した結果、女性の間に「パロディで遊ぶ」という楽しみ方が確立し、85年から86年にかけての「C翼」ブーム、続く「星矢」ブームが起こったのではないでしょうか。そしてそうした楽しみ方は、現在でも女性たちの楽しみ方の主流となっていますし、男性の楽しみ方にも影響を与えているのではないでしょうか。

 そこで現在、アニパロという表現手段がどのように形成されてきたか、調べています。今のところ、1979年から80年に萌芽が見られ、81年に方法論が確立し、82年の「アニパロコミックス」の創刊で、「アニパロ」というジャンルが完全に確立したと考えています。このブログでは、調べて分かった結果を少しずつ書いていきたいと思います。

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